skip to content
one more think

学校を、地域で運営する場所に

/ 18 min read

Table of Contents

学校を子どもの居場所として開放するなら、場所は学校のまま、運営は地域が担えばいい。そして地域で動ける人を生み出すために、私たちの働き方も変わっていく必要がある——という話。


学校の開放というのがニュースになっています。夏休みに学校を子どもたちの居場所として開放しよう、というものなのですが、現場からはすかさず「じゃあ、誰が面倒を見るの?」という声が上がりました。これはもう、ごもっともだと思うのです。

その一方で、少し違う場所ではこんなことも起きています。部活動の地域化、つまり部活動を学校の先生の手から離して地域の人たちに担ってもらおうという流れの中で、「学校を使って活動したい」という地域の人がいても、なかなか使わせてもらえない。片方では「開放するから誰か見て」と言われ、もう片方では「使いたいのに開けてもらえない」。同じ学校という建物をめぐって、真逆の詰まり方をしているわけです。

この二つ、根っこは同じところにあるんじゃないかなと思っています。「学校は先生のものであり、先生が管理するもの」という前提です。だから開放すれば先生の負担が増えるし、貸すとなれば先生が管理の責任を負う。そこを裏返して、「学校は地域で運営するもの」と考え直せたら、ずいぶん景色が変わるのではないか。そのために要ることを、〈地域の側〉と〈学校の側〉、二つの方向から考えてみました。地域の側は担い手の話がひとつ。学校の側は少し込み入っていて、建物・責任・運営という三つに分かれます。

ひとつめ・地域で動ける人を増やす

学校を地域で運営するといっても、担い手がいなければ絵に描いた餅です。結局のところは「平日の昼間や休みの日に、学校に関われる大人が地域にどれだけいるか」に尽きます。ところが、いまの働き方だと、これがなかなか難しい。朝に出て夜に帰る、その間はまるっと会社にいる、という前提だと、地域には昼間ぽっかりと人がいなくなってしまうのです。

ここで効いてくるのが、柔軟な働き方です。在宅ワーク(会社に行かず、自宅などで働くこと)や、フレックスタイム(出社や勤務の時間を自分で選べる働き方)が広がると、平日の真ん中に少し手が空く人が出てくる。午前中に自分の仕事を片づけて、午後の数時間だけ地域に顔を出す。そんなことができる人が増えていきます。

担い手というと、つい「退職した人」や「家にいる時間の長い人」を思い浮かべがちなんだけど、そこだけに頼っていると母数はなかなか広がりません。働きながらでも、時間の融通さえきけば関われる——この層をどれだけ引き込めるかが、地域の担い手の厚みを決めるんじゃないかなと思うのです。

在宅ワークの場合は勤務時間が固定(フレックスの対象外)という会社もあって、これもなんとかして欲しい。在宅ワークだとちゃんと仕事しないと思ってる会社が多すぎるんですよね(笑)。

裏を返すと、柔軟な働き方というのは、その人の暮らしを楽にするだけの話ではない。地域に人手を戻す、という副産物がちゃんとついてくる。ここは案外見落とされがちな効き目だと思っています。

ふたつめ・学校の在り方を変える

もっとも、担い手が増えたとして、その人たちを迎え入れる学校の側がいまのままでいいのか、という問題が残ります。ここを現実的な形で考えると、「先生の職務としての学校」から、三つのものを切り離して地域に渡す必要があるのではないかなと思うのです。

建物を切り離す — 「学校」の中に「地域の部屋」をつくる

いまの学校の一番の問題は、「授業で使うスペース」と「地域が使うスペース」が、物理的に地続きになっていることです。玄関から入れば教室まで一本でつながっている。だから、開放したら教室に入り込まれるかもしれない、備品が壊されたり無くなったりするかもしれない、と心配になる。結局、誰かが残って見張らざるを得なくなります。

ここは、家にたとえるとわかりやすい。玄関を開けたら寝室まで丸見えの家に、他人を招くのは落ち着かないですよね。でも、玄関脇の一部屋だけを客間として仕切っておけば、そこに人を通すのは気が楽になる。学校も同じで、体育館やグラウンド、図書室や多目的室といった「地域が使う場所」を、鍵のかかるシャッターやカード式の鍵(カードをかざすと開く電子的な鍵)で、普通の教室エリアからきっちり区切ってしまう。

さらに、その地域エリアだけで照明も空調もトイレも完結するようにしておく。校舎全体の電気をつけなくても、そこだけ独立して使える。新しく建てたり建て替えたりするときは、これを前提にしてしまえばいい。

こうすると、「学校を丸ごと開ける」のではなく、「学校の敷地の中にある、地域の場所を地域が使う」という話に変わります。先生の側の心の負担が、ずいぶん軽くなるはずです。

責任を切り離す — 休みの日の校庭は「学校の外」にする

現場がいちばん怖いのは、たぶんここです。休みの日に誰かが怪我をした、事故が起きた、知らない人が入ってきた、物が壊れた——そのときに校長先生や担任の先生が責任を問われるんじゃないか、という恐怖。この一点があるかぎり、どんなに「開放しましょう」と言われても、腰は引けたままになります。

だとしたら、「休みの日の学校の敷地は、先生の職務の管轄の外」という線を、制度としてはっきり引いてしまう。そのうえで、では誰がその場を回すのか。

ここで私がいいなと思うのは、どこかの業者に「管理を委託する」という発想よりも、地域の人たち自身が運営の主体になる、という形です。上から「お宅に管理を任せますね」と割り振られるのではなく、地域が「自分たちの場所を、自分たちで運営する」。鍵の開け閉め、利用者の受付、安全の確認——こういったことを、地域の人たちで作る運営組織(協議会や地域クラブのようなもの)が、自分たちの手で担う。その担い手こそ、さきほどの柔軟な働き方で時間を作れる地域の人たちであり、しかも有償できちんと関われる場所です。

ここで大事なのは、これは「先生を締め出す」話ではない、ということ。運営の主体が地域に移ると、先生は”職務として全部背負わされる立場”から下りられます。そのうえで、いち地域の住民として関わりたければ関わればいいし、関わらなくてもいい。関わるかどうかを、仕事の義務としてではなく、自分の意思で選べるようになる。ここが、いまとの一番の違いなのではないかなと思います。

もちろん、地域に丸投げすれば回るわけでもありません。自治体(教育委員会)は、予算や保険、制度の後ろ盾といった土台を用意する。旗を振り、下支えするのは自治体、でも運営のハンドルを握るのは地域。そういう役割分担です。あわせて、開放するといっても「誰でも自由に出入りできる公園」にするわけではなく、あらかじめ登録した地域の人や子どもだけが使えて、スポーツ保険(活動中の怪我などに備える保険)への加入を条件にする。こうしておけば、いざというときに「誰が」「どう」責任を持つのかが、あらかじめ決まっている状態になります。

運営を切り離す — 学校は「抱え込む」のをやめる

最後は、先生たちの側の気持ちの話です。地域で子どもを育てようというときに、学校が何もかもを抱え込むのをやめる、ということ。

休みの日の運営も、活動の中身も、トラブルへの対応も、担うのは地域の運営する側。先生は、そこから一歩下がっていい。そのうえで、やりたい先生は、いち地域の住民として加わればいいのです。「先生だから運営もやってね」ではなく、「地域のひとりとして、やりたいなら一緒にやろう」。同じ人が関わるのでも、この二つはまるで意味が違います。

そして、この関係は一方通行にしないほうがいい。休みの日に学校という場所を地域が使う代わりに、平日の授業には、地域の人たちが外部の先生役(ゲストティーチャー)として顔を出して協力してくれる。地域が学校に入り、学校が地域に開く。お互いに行き来する関係にしておく。学校と地域が支え合うこの仕組みは「コミュニティ・スクール」と呼ばれていますが、その看板を、実のあるものにしていくということです。

で、結局どこに着地するか

現実的な一歩は、「学校を地域で運営する」という形を、地域が自分たちの手で立ち上げられるかどうか。ここにかかっているんじゃないかなと思います。

自治体(教育委員会)は、予算や保険、制度という土台を用意する。学校は場所を差し出し、休みの日の運営そのものは地域に委ねる。そして地域の住民——柔軟な働き方をする人たちも含めて——が、「自分たちの場所を、自分たちで運営する」当事者として、権限と責任を持って関わる。先生だって、その気があれば地域のひとりとして加わればいいし、加わらなくてもいい。

逆に言うと、「善意のボランティア」や「先生の自己犠牲」に寄りかかった開放は、たぶんどこかで必ず息切れします。人の善意は尊いけれど、善意を前提に組んだ仕組みは、その人が倒れた瞬間に止まってしまうから。

「学校は先生のもの」から「学校は地域で運営するもの」へ。この一歩を踏み出せるかどうかが、現場の納得感を保ちながら、地域の活動も元気にする、いちばん現実的な答えなのではないかなと思うのです。

私は学校教育については部外者なので、中の運営そのものに関わっていくことはできません。でも、ひとりの社会人として、自分の働き方を変えることなら(たぶん)できる。だとしたら、「働き方を変えて、地域で動ける人を増やす」——その入り口のところでなら、少しは役に立てるんじゃないかなと思っています。

学校って、地域にとってはけっこう一等地に建っていたりするじゃないですか。そこが休みの日にただ静かに閉まっているのは、もったいない。開けるための鍵は、たぶん建物の鍵ではなくて、「学校は誰のものか」という、考え方のほうの鍵なのかもしれませんね。